民主党政権が進むべき政治的大道(2)

中央集権制を廃して国民主権たる地方分権化へ進む大道を示そう。

その第一歩は官僚支配自民党政治の中央官僚から国家予算を取り上げることである。このことが最も枢要な政治改革の入り口である。何故なら政治は国民の富たる財政によって運営されるものだからである。そしてこの国民により築き上げられた財産こそが国家そのものの力であるからだ。

中央集権制の官僚は国富たる国民の財産を壟断してきたことに他ならない。彼らが政治を支配することが出来たのもここに源があり、それは単に国家予算という金庫を独裁することによって容易に実現可能であったのだ。たとえ特定の、一握りの学閥によって国家の財産は押さえられ、官僚天下の中央集権制腐敗政治をまんまと許してきたことを意味する。

民主党の道州制的二重支配の構造は望ましくない。地方分権の最初の一歩は、現行の地方自治体を前提として、官僚支配の補助金と国直轄事業を全廃して全て地方交付税とすることである。その次に特別会計の闇を一つずつ解体してゆくことだ。即刻実現可能な特別予算の一般財源化への移行を始めることである。その一つは、いつの間にか曖昧にされた道路特別財源59兆円の一般会計への移行である。

ここで財源の問題として財務官僚や御用の有識者達がこの国の財政状態を嘆くことに心する必要がある。彼らは国家の借金が1000兆円に達することを挙げ、財政再建や増税の必然性を叫ぶ。しかしこの屁理屈こそ亡国の官僚支配政治擁護の詭弁であることを我々は厳しく糾弾しなければならない。

国債残高が800兆円になり、国民一人当たりの借金が700万円になるというが、これのどこに不安があるというのか。日本の国債は日本国内でしか販売されていない。官僚達が作ったこの借金は、国民が国債を買ったものだ。だから国民はいわば貸し手である。それを国民一人当たり700万円の借金などと喧伝するのが、いかに噴飯物であるかが分かるだろう。

日本は世界有数の債権国である。イタリアで起きた13兆円の米国債事件は官僚政治の闇の一部であると推定されるが、米国債を100兆円持ち、世界中に融資してきた。その額は恐らく闇の特別会計250兆円に匹敵するはずである。

それから民主党が財源とする予算執行の無駄は特別会計250兆円の1割、25兆円は下らないし、公務員給与は退職金、年金を含めれば2割ならず3割削減が適切である。更に遊び呆けるために存在する独立行政法人への予算は少なくとも2~3兆円はある。公務員の雇用を保証してこれらの無駄を廃止し、全廃するだけで少なくとも50兆円は税収に頼らずに今でも計上することが可能である。

これらの国家予算を、中央政府のひも付きでない形で地方自治体へ還流させるのである。ただし、地方自治体とその住民には、企業経営と同等の責任があることを銘記させる必要があることと、予算執行の説明責任と透明性を確保する仕組みが即刻、必要であることはいうまでもない。

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民主党政権が進むべき政治的大道(1)

来るべき衆議院選挙において民主党政権が樹立されたなら、民主党政権が進むべき政治の大道を示そう。それはおそらくこの国の歴史に際立った政治改革の金字塔として記録されるに相応しい国民主権の民主政治へ歩む最初の道でもある。

この大道こそは、小沢一郎が政治生命を賭して体制の中で、或いは反体制の党として激しく自民党政権に迫った官僚政治からの脱却の道であり、官僚が支配する中央集権制から国民本位の地方分権政治への道である。今では民主党の政治理念として刻まれた『霞ヶ関解体』という具体的な姿で語られるまでに至ったが、国民が願う救国の政権交代こそが、その道である。

霞ヶ関を解体して地方分権化へ進む道とは、官僚が支配してきた中央集権制の政府から国家予算を奪い、国民本位の行政運営として使うことである。具体的には国民の目に触れることなく、官僚の恣意的運営に委ねられた闇の国家予算たる特別会計を白日の下の晒し、この莫大な国民の富を今こそ国民の手に戻すことである。

思い返してほしい。小泉-竹中政権が発動しようとした国と地方公共団体の三位一体の改革を。これは(1)国家補助金制度の廃止・縮小、(2)税財源の地方委譲、(3)地方交付税の見直しの3つであった。これは官僚から国家予算執行権の一部を奪い、官僚支配を排除する最初のきっかけになる目的をもつものであった。

けれども、この自民党政権の体制内の初めての改革の試みは『抵抗勢力』たる財務官僚とその学閥の力に押され、国家財政の健全化という大義名分に負けて、結局はいつものように骨抜きにされ、あろうことか6600億円の財源委譲と引き換えに2兆円の補助金と1.7兆円の地方交付税が削減され、地方が更に苦境に立たされることになったのである。

そしてこの予算削減から起きた地方の疲弊は、小泉-竹中構造改革に原因があるとされた。当時の岡田克也を代表とする民主党もあらん限りの罵詈雑言をもってこの小泉-竹中構造改革を非難したが、それは財政健全化を触れ回って増税を推進する官僚の思う壷のストーリーであった。

反対のための反対がこの国の政治闘争の不毛を起こしてきた原因である。そしてその反対のための反対は、時に国民が望んだ方向とは全く逆の方向へ自らを陥れ、国民の期待を裏切ってきたのである。それはなにかといえば、この国の政治の貧困の元凶たる『官僚政治』を真っ向から否定する大きな政治闘争の大義を国民の目からそらすような矮小な政治的批判、政治的主張に終始してきたからだ。

小泉-竹中の改革が失敗した理由は、官僚と妥協したことにあることに注目せよ。そして官僚と妥協することなく、この大道を歩むことがいかに困難な道のりであることかも銘記せよ。何故なら、官僚が張り巡らした法の網の壁が高いことと、民主党内にも官僚に手を貸す似非民主主義者や似非正義感に束縛された官僚優位の信条を持つ者が依然として存在しているからである。

願わくば、官僚一派が考えた2重構造の道州制のまやかしをきっぱり否定して、小沢一郎が政治生命を賭して叫んだ「霞ヶ関解体」の理念の下に、政権交代を願う勢力は今こそ団結してほしい。

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郵政民営化『カンポの宿』の混乱の中で

郵政民営化に絡んでカンポの宿売却問題で悶着が発生した。この問題は、この国の改革が何であるかを曖昧にして、郵政民営化に象徴された官僚政治からの脱却を後退させる動きに利用された。

中央集権制官僚支配に迎合した西川の不正は厳しく糾弾されなければならない。しかし鳩山邦夫の西川批判は、非東大卒社長の西川をさらし者にして、民営化を逆回転させようとする官僚のシナリオであったことを忘れてはならない。

民営化された公社や独立行政法人などが名ばかりで、中央省庁の支配がさらに強化されていることに注目せよ。カンポの宿にしても払い下げの規準や手続き、払い下げ評価額は総務省も同意の上であり、その計算法は、つい最近の厚生年金流用のグリーンピア売却とそっくり同じであることをである。

そして財務省と一体化してきた大銀行の頭取を民営化した郵便会社のトップにした誤りを突かれて、いわば謀略的に民営化の是非を問う国民世論の誘導に摩り替えられ、体制派マスコミが小泉―竹中改革を批判する。この動きに騙されてはならない。

しかし自民党政権の自己改革能力の無力さ、或いは自浄能力の喪失というべきであるが、この国の議院内閣制の行政がすべからく官僚に依存し、官僚が作る法に支配されてきたことを、このカンポの宿問題で露呈したというべきである。

小泉構造改革の狙いを思い起こそう。すなわち、構造改革と位置づけられた郵政民営化の主たる狙いは、官僚から権限を奪う試みであったのだ。財務省に支配された特別会計の大きな闇である財政投融資の資金源である郵便貯金を財務官僚から奪うことであり、戦前から続く中央集権官僚支配から地方分権へ道を開く財源委譲の三位一体改革もこのことに連動するものであった。

今回のカンポの宿の問題は、小泉-竹中構造改革が中途半端に終わり、この国の政治構造が民営化した後でも官僚支配が根深く残っていることを物語る。

岡田民主党は小泉郵政民営化選挙で大敗を喫した。それは岡田克也らが政権交代だけのために、国民的に支持された争点をすら念頭に思い浮かべられなかった無能の証明でもあった。いや、岡田自身が官僚の立場に立つ、いわば抵抗勢力側の様相を持っていたからであろう。

それは政治の構造改革を支持した、今では政権交代を希う多くの国民を混乱に陥らせる恰好の不祥事であったからだ。

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学閥に壟断された国

教育が国家100年の大計と言うならば、この国の教育は100年もの間、不正義の国家大計を担ってきたというべきであろう。何故ならば、この国の教育は西欧の模倣から始められたとしても、それは西欧の方式を利用して人間の序列を定めるための道具として使われてきたからである。

教育が国家100年の大計というのは、人間世界は人間が作る文明文化や自然科学の進歩によって発展することを前提とする言葉であるからである。そしてそれは常に新しい人間の力を産み出すためにこの世界の有り様を新しい世代へ伝え、混沌世界の中に新しい秩序という文明の光を灯し続けることを意味する。

それ故に、教育は人間の育成をはかることと共に国家のみならず、この地球という人間世界の発展と繁栄を期待して試みられるものである。時代は常に流れ、一段一段づつの階段を昇るように、人間世界を人間の知恵が理想とする世界を目指して、絶えず歩むための営みとしてである。

教育が世俗の特権や排他的な利益追求の道具と堕したとき、おそらく人間社会は破綻し、崩壊の道を歩むに相違ない。この国の教育を振り返れば、教育機関を設立した当時の素晴らしく崇高な理想すら、創立者の存命にもかかわらず脆くも崩れ去っていたことを我々は知ることが出来る。それは何故か、教育が国家権力の官僚支配に従属したからに他ならない。

公平に見るためにウイキペディアの文言を引用しよう。

三田閥 慶應義塾大学出身者の学閥。金融界など財界(大企業経営者)。

稲門閥 早稲田大学出身者の学閥。出版業界,マスコミ業界・政界、法曹界

白門閥 中央大学出身者の学閥。地方公務員・法曹界。

桜門閥 日本大学出身者の学閥。主に建築業界(中小企業経営者)、芸能界

赤門閥 東京大学出身者の学閥。高級官僚・学界・政界・財界一般

鉄門閥 東大医学部出身者の学閥。医療界

如水閥 一橋大学出身者の学閥。主に金融界や財界一般

政財界 7大学閥 1 慶應義塾大学 2 東京大学 3 早稲田大学 4 京都大学 5 中央大学 6 明治大学 7 日本大学

この分類は、この国の閉塞感を言い表している。それは人格識見が高邁な人間を排斥し、むしろ劣悪な人格の者たちが権力を握る中央集権制の下での後進的国家構造であったことだ。そしてそれはこの国の教育が人間の育成や学問追及という根源的な教育の目標を放棄し、学閥に列することが最重要の教育であり、権益確保の根拠とされたことを意味しているのである。

それ故、この国では国家権力の思惑による教育と研究しかなされてはこなかった。だから日本は世界に冠たる経済を持てる民族でありながら、西欧の模倣から脱出できず、政治的にも学問的にも世界に先駆けて日本の息吹を発信し、世界に伍してゆける国家足り得なかったのである。それは今でもそうであり続けている。

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中央集権制から地方分権の国民主権の政治へ

明治の国家近代化は高等教育とは無縁の国家有為の日本人によって支えられたが、官僚中央集権制に壟断されて以来、この国は世界に誇れる日本の国民が一握りの行政官にひざまずく政治を強いられてきた。官僚政治によってこの国は発展してきたのではなく、官僚政治の下で苦しめられながら、西欧列強に伍して発展してきた。

しかし、官僚政治は20世紀に入るや、亡国の道筋を一直線に先導する愚劣な政治の主催者であった。いわく、シベリヤ出兵、平価金本位制、金融恐慌、米騒動、言論弾圧、ファシズム化、軍部独走の容認、そして満州進出から亡国の太平洋戦争への歴史であった。

戦後、この国は奇跡的に経済復興とともに国家復興が達成されたが、この国家の復活は敗戦後にも生き残った官僚政治によるものではない。それは自由と民主主義を与えられた多くの日本人民草の力による。そしてこの国が絶頂を迎えたとき、すなわち1980年代、最も国家の政治が重要なときに、戦後に生きながらえた中央集権制の官僚政治は、再び亡国の国家指針を発動した。

この国を世界の経済超大国に押し上げた国民の力は、国民無視の誤った行政政策により、それから30年の時が経ちいま、バブル経済の崩壊、日本農業や製造業の衰退、そして国家の土台たる国民の安全保障、すなわち豊かな国家でありながらずさんな社会保障制度が露呈し、経済や産業、それのみならず医療や教育、法曹や言論に至るまで、破綻に瀕する事態が出現している。

皮肉なことに、或いは不運なことというべきか、この国家衰退は東大を頂点とする入学試験、すなわちそれは歴代中国王朝を破滅させた官僚登用の科挙試験と同類のものであるが、その試験至の高等教育を目指す国民の数が増加することに逆比例して、加速し、着実に二度目の亡国への道を歩んできたことに我々は注目しなければならない。

政治も教育も国民の土台から出発すべきものである。立身出世を餌に、高みを目指す席取り競争の教育を廃し、それに根ざす上位下達の政治を最早、拒絶しなければならない。これは虚構の知性であり、独善の政治の源となって来た悪辣なものであることは、この国の不幸な歴史の中ですれに証明されていることである。

日本国民の力によって生み出される国家財政は毎年230兆円を超える。しかし中央集権制の官僚政治はこの国民の富に寄生し、しかし国家予算の配分を壟断し、不正の限りを尽くしてきた。国民に優越する知性など存在しない。国家有為の人間はペーパー試験で選抜されうのではなく、むしろ国家に殉ずる心はペーパー試験不合格を志望するはずだ。国家の運営もそうである。選抜された官僚が、この大和の国を統治できる能力などあるはずはない。

国民の富たる国家予算は、地方に散在する国家有為の人材による差配にゆだねるべきである。官僚政治を撃つ究極の目標が、ここにある。

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国民主権と官僚支配との闘い

民主党代表が小沢から鳩山に代わり、鳩山が明瞭に『官僚政治の打倒』を表明したことはこの国の政治闘争にとって真に正しい争点の呈示であった。同じ東大の卒業生であったけれども、官僚出身で官僚政治の生き残りを容認する岡田代表であったなら、恐らく日本の政権交代は10年以上、先延ばしされ、こんどこそ日本は崩壊の危機に瀕する事態になったはずである。

このブログの最大の主張は、自由主義と社会主義の闘争ではなく、世界に冠たる社会主義的官僚の中央集権政治、今では利権にまみれた腐敗と後進的政治に堕した自民党政権の抜本的な改革である。それ以外の政治思想的な論争は全く意味を持っていない。

自民党も民主党も、目指すべき政治は国民主権の政治である。そこでも政治上の争点は官僚支配政治の継続か地方分権に象徴される国民本位の政治の選択であるかが問われなければならない。しかし不幸なことに、官僚主義というより、今では官僚依存に堕した多くの議員を囲う自民党と、官僚容認、社会主義容認の議員を囲う民主党という姿が透けて見える。

社会主義や共産主義というのは『大きな政府』を必要とする中央集権制の国家構造である。社会福祉とこれらは別の範疇のことで、社会主義であろうが自由主義であろうが、国民の需要がある限り発動される政策の項目である。そして大きな政府は中央集権制であるから現在と同じ中央政府の官僚機構を必要とする。ここに大きな問題を含み、多くの日本人はそれを選択しないはずだ。

民主党が自民党を打倒して政権を樹立したときに、恐らく連立で内閣を作るはずである。そのときには、政治闘争の争点がそうであったように、地方分権を目指し、国民が我が手で作れる政治が実現されるように、広く官僚政治を否定する勢力と連合する必要がある。決して中央集権的な労働組合や社会主義の論理に妥協しないことである。

この日本は鳩山由紀夫が示したように、総額230兆円の国家予算の10%以上が浪費されてきた。民間企業の平均を3割上回る公務員人件費だけでも35兆円にも上る。国民無視、国民蔑視の官僚政治を絶つだけで、この国に欠けている国民の健康や老後を保証する国家機能の財源確保は容易なことである。

矛盾や不公平に満ち溢れているこの国の構造を改革するために、我々はこの国民主権と官僚政治との闘争が救国の政治闘争であることを再度、認識する必要がある。

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東大解体闘争は権威主義に対する抵抗であった

学問の世界の腐敗、すなわち大学の腐敗は、歴史的に見ても学問を志すべき人間が権威主義に陥り、時の権力と癒着することから始まる。そしてわが国は、学問の世界への登竜門として科挙制を、すなわち没個性の試験成績のみをその及第の基準としたことから腐敗が始まったと見るべきである。

中国の科挙の序列が、皇帝という権力者への距離の近遠を意味したように、日本においても権力への登竜門となり、それは大学自身がいわば権力序列を形づくる基準となったのである。昔の旧制帝国大学と呼ばれた学校に通った者ならば、この試験成績の序列が大学の絶対的な秩序であったことを身を持って体験したはずである。

その世界では教授が全能の権威者であった。助教授以下の全ての研究の徒は、いわば権威者にぬかずく奴隷の如くである。それは東大といわず、帝大系大学の医学部で顕著であった。何故なら、医師としての能力ではなく、試験成績が、すなわち既存の知識に長けたものや、時に権力者と結びついた者がその地位を独占できたからである。そしてその地位こそが、大学の組織のみならず学問の世界を支配する秩序の根拠となったのである。

明治以降の日本や日本人が、独創性にかける模倣の文化しか作れなかったという批判があるとすれば、それは大学自身が権威主義の腐敗の水に最初から汚れていたことに原因があるに違いない。そして人間の関心や能力、学問探求への挑戦を全く顧みない、独創とは無縁な不毛の暗記教育が行われてきたからである。

東大受験を諦めた者は、前途が閉ざされたような絶望感を味わい、東大に入学した者も己の探究心を否定されて、点数序列の人生の選択を迫られて愕然とする。恐らくこの国では、新しい世代が文明の進化に寄与する挑戦をはなから否定した教育を施してきたのである。それが国民の力で表現されるこの国の国力とは大きく隔たった国家運営のありように如実に現れている。

亡国の教育は官僚支配国家として日本を作り、この国に色濃くその害毒を流し続けてきた。東大闘争は、やがて支配層になる人間ではあったけれども、この絶望的な学問の場の理不尽な権威主義に対する抵抗運動であったのである。そしてこの抵抗は、生活の貧しさ、豊かさとは無関係に全国の若い学生に共感されて大学紛争へ発展したものだ。決して政治理念や経済理論の闘争ではなかったのである。

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東大解体闘争後40年

東大解体闘争、或いは安田講堂攻防戦と呼ばれた学生の反政府活動が終焉して40年の時間が経ってしまった。あの事件のとき、私達は大学4年生であった。北海道から九州まで、全国の大学で紛争が起こっていた。今、振り返ってみても、当時の私達世代の人間が、何故、反政府的行動を取ったのか実は分からない。

漠然としたこの国の仕組みに対する反感はあった。自由と民主主義という原理から著しく乖離した権威主義や官僚主義の匂いも、年功序列とか、学閥系列化などの腐敗臭も感じていた。しかし、入学試験点数による大学や人間の序列化は、自分達がその中の上位に置かれていたという意識ゆえに、肯定的に容認していたように思う。

特に東大では、試験成績が人生の全てを決める要素であり、成績トップのものから順に能力的にも仕分けされるという原理を、公平な基準であると信じて疑わなかった。成績優良者は、能力以外に、それだけの努力もしたという意味において、この人間の類別化、差別化には正当性があると考えてきたからである。

そして、権力擁護の右派であれ、反権力の左派の人間であれ、学問の場であるが故に、その公平な尺度で指導的な人間の養成が行われるかぎり、国家有為の人材供給組織としての大学のシステム自体を否定する立場ではあり得なかったのだ。大学のシステムの中で落伍する人間は、怠け者か無能力者か、或いは過激な反体制の人間か、という類型化がそれほどの抵抗もなく受け入れられていた。

この意味において、東大解体論或いは東大闘争と呼ばれる学生の反政府運動には、最初から学生自身の中にその闘争の意味や意義を持っていなかったといわなければならない。だから、反米、反自由主義という政治イデオロギーの影響の下にこの学生運動はおとしめられ、政治的権力闘争の道具として利用された。

そして左翼政治のプロパガンダの道具として利用されるほど矮小な行動であったから故に、この国の政治システムや国家の理念を改革する闘争としての意義を最初から喪失し、結局は大いなる喜劇か、悲劇か、或いは児戯に等しい左翼革命ごっこの大失敗の政治行動で終焉したのである。

東大解体闘争の理念に欠けていたものは何か。それこそが東大は、かつての東京帝大から今日まで独善的官僚を輩出し続け、その独善的官僚主義を支える学問的根拠となってきたという理解である。

すなわち政治的或いは国家有為の人間を、まさに中国歴代の科挙的選抜法によって選別する恐ろしいほどの権威主義の根拠であり続け、一度は亡国を導いた悪弊としての存在であったという認識の欠落であろう。

そして東大の権威主義が国家有為の人材発掘と養成の場ではなく、東大はむしろ国家有為の人間の選抜や登用を阻む虚構の学問の門として存在し続けてきたという歴史的分析の欠如であったといえる。

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道州制の基本的意義は東大官僚支配の中央集権制の打倒である

道州制の制定のみならず基本構想そのものを決める法案が先送りされた。この国の御用学者集団である東大主導の有識者会議なるものの常套手段である。しかし、今回ばかりは先送りは是である。理由は政府官僚がまとめる制度の基本理念など、噴飯物であるからだ。

東大主導の官僚が考え出す政治制度改革など政治不信や批判をかわす卑劣な衣替えに過ぎないからだ。すなわち、地方分権とか地方自治の拡大という美名に隠れて、腐敗した官僚組織と中央集権制を合法的に延命させる仕掛けと理念が含まれている。

それ故、東大有識者-官僚を排除した検討の場でこそ、この本物の日本の民主政治実現のための制度や法律は構築されるべきだからである。そして官僚の代弁者である東大法学部卒の、有体に言えば知的能力に恵まれない鳩山邦夫総務大臣が指示したという制度改革の意義を決める法案成立を先送りすれば、それは現行の腐敗した官僚支配政治を延命させることと同じ意味を持つ。

制度理念を批判して延期を要請すること、最初から悪意が仕込まれた法律成立を先送りすることは、既得権の悪弊を温存させようとする官僚の常套手段の思惑と一致する仕組みなのだ。

国民が気がつけば、小泉-竹中構造改革は悪政の極みとされ、政治と行政の改革ははるか彼方に後退させられている。しかも政治や行政改革を叫ぶ野党であっても、この東大官僚主導主義に毒されて、自民党内部から立ち上がる反官僚勢力を完膚なきまでに叩き潰そうとする。

かくして、日本の野党も東大権威主義の大きな傘の下で、日本の後進的官僚支配中央集権制の政治運営を反体制の側から推進する共同正犯であったのだ。東大は、誰一人、合格する自信も確信も持てない席取り競争に勝つた者が進学する学校である。点数競争の暗記学習に成功して運よく人より高い点数を取っただけの人間が進む学校である。

そしてこの学校の卒業証書を持つことで官僚でも学界でも、法曹でも、一昔前なら銀行などの御用企業でも、排他的な利権の恩恵に浴せるが故に、人格貧しく、能力無き者達が望む立身出世の唯一無二の手段となってきた。真の学問を欲するものは、この入学の動機と刻苦勉励の暗記作業など、はなから拒絶するに相違ない。

すなわち、東大が最高の競争点数である限り、東大は学問の府に相応しい人間の選抜に失敗してきたことを物語っている。学問を志す者にあるまじき権威主義を最初に選択した者達が進学した学校であったからだ。それ故に、明治の近代化革命に成功したこの日本は、東大官僚、戦前にあっては東大と並び称された陸士・海兵卒軍事官僚によって亡国したのである。

百年に一度の世界的経済恐慌の前夜は、この世界に優れる日本人と日本の国家が世界的にも主導的立場に立てる、やはり百年に一度のチャンスであったはずである。しかし東大が養成した官僚や有識者なるもの達のかくも浅ましい性根のために、この麗しき日本民族と日本はその機会を失い、能力で劣る西欧、アジアの他民族の後塵を今も拝し続けているのである。

この国の構造改革の原点は、40年前の東大解体のスローガンに謳われた日本の教育の革命的革新である。

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官僚政治へのペナルティーは賃金カットから

東大を頂点とする学歴主義と官僚主義が一世紀以上もこの国を覆い尽くして、常に反国民的、反日本民族的政治と国家運営が行われてきました。これは最早、議論の余地などないこの国の諸悪の根源というべきことです。

10年以上前に解禁された「派遣労働者法」。一体、誰が、どんな有識者が、どこの学校の研究を基に、この世界に恥たる法律を作り、国家が非文明国家社会の労働の搾取、有体に言えば「ピンはね」容認法を作ったのでしょうか。東大の研究と東大出の官僚・学者によって作られたのです。振りかえれば、この国の法律や仕組みは、反国民的なものばかりでした。国民の権利は少しも守られず、国民の財産たる税金は滂沱の如く浪費されられて来ました。

政治の最高責任者の首相にこれらの全ての責任があるわけではありません。この国の政治的最高責任者など、いわば東大官僚の悪政の尻拭い役か、辞任して責任を取ったことにするトカゲの尻尾役にしか過ぎません。悪政の本当の責任は官僚養成・輩出学校である東大にあります。そして東大を頂点とした官僚組織、御用意識に凝り固まった公務員組織にあるのです。これが常に国民蔑視の腐敗組織でした。東大は腐敗する人間の養成機関にしか過ぎなかったことを意味します。

今、民間企業の経営が苦しくなり解雇の嵐に突入しようとしています。この問題では企業の御用組織たる労働組合に大きな責任がありますが、ここでも役所と同様に東大を頂点とる官僚主義がはびこり、自分達の既得権を守ることしか興味のない運営をしてきた馬鹿者どもの巣洞です。派遣労働の不法行為は、この御用の労働組合やその上部組織の連合によって容認されてきたのです。まさに犯罪でした。

企業が経営を守るために解雇や採用抑制策を取るのではなく、世界では当たり前のことですが、在職者の賃金の1割、2割カットを行ってでも雇用は絶対に守るという国家的な意識が絶対に必要なのです。そして全ての日本人の雇用は守られなければなりません。弱者や若い世代へのしわ寄せは決して容認してはならないのです。

それと同様に、国家の財政が破綻しそうだというなら、年間30兆円にも40兆円にも上る公務員給与を1割でも2割でもカットすることこそ肝要な政治政策です。田母神幕僚長とか守屋事務次官の退職金が6千万円、7千万円、そして年金が400万円を超えるというのは、まさに国民をなめきった制度政策にほかなりません。

全ての公務員がこの不法な制度の恩恵にあるなら、公務員給与を民間企業並みに3割カットして、この国民の冨を社会保障制度の原資に給すべきことは論をまたないことです。年間10兆円を超える国家財政の有効活用になるのです。

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政界再編は、官僚対反官僚の対立軸で試みよ

この国の政治闘争の対立点は、腐敗の自由民主党vs正義の社会主義政党という構図ではありえなかったのである。体制派を右派、反体制派を左派とするならば、この国の政治的対立軸は東大主導官僚主義vs非東大の自由と民主主義の対立であるべきだったのである。

それゆえ、科挙教育の悪弊を強調するために、この政界再編をあえて官僚vs非官僚ではなく、東大卒vs非東大卒との闘争と位置付けしてみたい。

日本は、科挙式官僚選抜教育とは無縁な日本人によって侵略の時代の19世紀を生き抜き、西欧列強の植民地化侵略を受けることなく、アジアで唯一、西欧列強の一角と戦争をして勝利した。しかし戦乱の20世紀に入り、東大卒官僚が跋扈し始めたときから、この世界に比肩できる日本民族の国家は変質し、自ら破滅と亡国の道を歩み始めたのである。

それは、陸士海兵卒のエリートともてはやされた軍事官僚と東大独占の文官官僚のあまりにも愚かな政治によってである。シーメンス汚職の海軍、シベリア出兵の陸軍、そして最初の東大卒首相の加藤高明の対華21か条の要求に象徴されるように、科挙官僚の跋扈によってこの国はあの悲惨な敗戦に至る理念も戦略も持たない愚劣な烏合の衆の官僚政治を強要され、一度は亡国したのである。

日本が戦乱の20世紀に敗北した原因を俯瞰しよう。それはエリート意識だけはすこぶる高い軍事官僚と文官官僚の下らぬプライドのために亡国したといってよい。戦争を前提とした政治や経済の国際化の中で、日本の国だけが陸軍が偉い、海軍の方が試験が難しい、何をいうのが帝大法科が天下一じゃと言っていた政府によりこの国は運営されていたのである。

「五族協和の満州建国」や「アジアの独立」という当時では世界最高の正義を日本は持っていた。しかし大義名分を持ち、実力も持ちながら何故、愚かな戦争を起こし、悲惨な国家破滅の敗戦に至ったかは、外交戦略で負け、陸軍は海軍と協調もせず満州。アジアで暴走し、海軍はアメリカとの戦争にのみ注力していたからだ。

それは今現在のこの国の政治状況と同じく、プライドに凝り固まった政策も理念もない烏合の衆と化した官僚を糾合できる政治家が不在だったからである。なぜか、明治以前の優れた、破格の日本人を科挙教育は抹殺し、下劣な知性の人間をこの国の指導者として送り出していたからである。

アメリカ一極支配が終焉しようとしている現代にあっても、東大主導の日本政府は20世紀初頭と同様に、為すすべも無く、世界をリードすることも出来ず、存在感すらなくアメリカに従属している。それは日本人の叡智を集める政府一丸が出来ず、国民の目が届かぬ政府の中で、傲岸に自己満足している無能の政策集団に過ぎないからである。

再度、協調しよう。歴史的教訓と現在の喫緊の救国の観点から、一度は東大卒の学歴の人間、政治家たちを否定的に評価しなければならないことの意義を!

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亡国のエリート選抜の科挙教育を廃せ

明治に始まった日本の近代教育は、エリート官僚を養成する帝国大学を頂点とする選抜試験の教育でした。すなわち、中国の科挙試験と同じ趣旨と思想を持った教育でした。

そしてこの教育が世界に優れる日本人を日本の国家みずからが排斥し、膨大な数の亡国の科挙官僚を輩出し続けてきたのです。このことは今の日本の教育で養成された者が国家枢要の人材というものではなく、およそ優れた日本人を代表する人材では毛頭なく、卑しい立身出世にのみ関心が深い凡庸な人間の選抜と養成に過ぎなかったことを、この国の歴史は示しています。

それは、明治維新以後、世界に羽ばたくべき20世紀の時代を、まったく正逆の亡国の道へと誘導した愚かな日本人の群像がそれを如実に物語っています。亡国の敗戦から、19世紀の奇跡を起こした優れた日本民族は再びアジアの奇跡を実現して蘇りました。

しかし、優れた日本人を見下す科挙教育を及第した勝者とうぬぼれる愚かな人間どもによって、20世紀初頭に見せた世界に恥たる日本人の無様な姿を再び世界に晒しています。

日本の中だけでしか通用しない高慢、高飛車、傲岸無礼を平気で行い、それを高尚な知性と錯覚を起こす人間どもの跋扈で、この国は再び死に至る病の淵にあるんです。殺された年金制度改正の責任者の元厚生労働次官の山口も、本来は臆病な人間でしたが省内では高慢、高飛車な人間でした。その彼に象徴される東大法学部を頂点とする官僚、法曹、そして今では医者が、おそらくこの国の進歩を逆行させる元凶でしょう。

奇しくも現首相の麻生太郎が、非常識な医者が多いといい、医者が非常識な人間であることは日本人の常識であるとさえ言われるようになった医者。これは何故でしょう。予備校の大学入試難易度ランキングというものがありますが、日本の医学部が東大と同じ入学最低点数になったからに他なりません。

それは私達もかってその錯覚に陥っていましたが、入試最低点が高い学校に入った俺達は国が認めた秀才だから、馬鹿な国民にへりくだることも遠慮することもなく、何でも許されるという錯覚に陥ります。そしてこんな勘違いの人間が教育した人間は、当然のことながら世界に通用しない勘違い人間であり、それを連綿と、無責任に、この国では輩出し続けてきたのです。

今も昔も人間の能力は変わりません。しかし、戦前は陸士、海兵、東大の科挙が狂い、戦後は東大だけが入試という科挙教育で狂っていました。しかし注目すべきは、我々の時代と違って今は、裏口入学がまかり通る早稲田、慶応ですら旧帝大なみの難関校だ、エリート校だと呼ばれ、そこで学ぶ若い日本人がその魂を破壊されていることです。それは官僚、法曹、医者、と同様に、エリートと錯覚した私立も亡国の人材養成に堕したことを大麻汚染の不祥事で体現しはじめています。

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究極の官僚政治の打倒は教育改革にある

昭和37年(1962年)、私が育った県の高校入学率は70%に満たなかった。中学の卒業式のあと、高校に進学する生徒は教師の命令で、東京などの都市、当時は京浜工業地帯と呼ばれた地域に集団就職する同級生を国鉄の駅まで見送りにいった。ちょうど太平洋戦争中の出征兵士の送別のようにである。

高校に進んだ生徒の大学進学率はまだ20%足らずで、進学校の普通科の高校の次は、工業や商業の高校であった。同年齢の生徒が200万人を超えた団塊世代は、150万人に近い生徒が都会へ出て行った。そして彼らの多くは輸出立国の製造業の中で働き、この国の経済発展を支える労働力となった。

日本の経済成長や発展に寄与した彼らの社会的な扱いや評価はどうだったか。この日本は、暗黒の戦前から生き延びた東大を頂点とする点数序列の学歴偏重の教育が支配する国家であった。それは丁度、東大卒官僚が支配する行政府を頂点に、国家に寄生する少数の大企業から企業規模順に、大多数が占める零細企業を底辺とした典型的なピラミッド構造であり、このピラミッド世界の企業の中の社員も、典型的な学歴ピラミッドによる学歴身分制度が堅牢に築かれていた企業社会を生きねばならなかった。

そしてこの日本の社会は大学卒と呼ばれた人間が、学校序列に応じて支配する世界でもあり、特定の大学卒業者が支配する学閥の社会でもあった。そして大企業であればあるほど、行政府との関係が深く、いわば御用企業の様相を呈しており、日本を支える底辺の小企業は行政府の庇護が薄いものであった。

非学卒者の社内評価は劣悪なものであり、今でも残る官僚や警察官、自衛官の昇進と同様に、学卒キャリアの前で差別の辛酸をなめさせられたのである。それ故、常に下層の労働者に貶められた彼らが自分の子供を育てたとき、工業や商業の高校へは進ませず、進学を目的とする普通科高校に子供たちを進学させた。

ここに技術立国日本の技術者教育の空洞化が始まった。工業などの専門高校は普通科校の落ちこぼれと呼ばれるようになり、基幹技術の教育は恐ろしい速度で衰退した。それに変わって大学進学のための高校がもてはやされ、塾や予備校の業者が繁盛するいびつな教育風景に日本は変質した。

今から30年前に始まった大学入試の共通試験、今のセンター試験は進学希望者が飛躍的に増加した日本の子供の能力をペーパー試験の点数で序列化し、偏差値で表現するという世界的にも恐るべき選別教育を始めたのである。

ここでは入学最低点の序列化で人間を規定し、大学を序列化し、高得点を難関と称して高級な教育機関であるかのごとく虚構を作り出したのである。これは国家百年の大計に見合う、わが国の教育の理念の完全な放擲であった。

かくして日本からは、戦後の日本の発展を支えた国民の力、技術の力、創意工夫の力が失われ、軽佻浮薄な芸能人文化に汚染した新たな世代、新たな日本人を作り出すようになったのである。

いま、日本は官僚と官僚組織以上に日本人の心と技が衰退し始めている。官僚政治打倒は、実は官僚政治を支え続けた立身出世主義の日本の教育の打倒でもあり、日本人の心に巣食う旧来の教育観念の大胆な改革を必要としている。

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世界金融恐慌を前に為す術もなく-虚妄のエリートの無残

アメリカの過剰な自由放漫の金融商品の破綻で、世界の金融システムが崩壊する危機に直面している。アメリカが駄目なら私がという勢いでイギリスのブラウンやフランスのサルコジが金融の信用不安解消に乗りだして来た。日本はどうしたのか。

官僚傀儡の自民党麻生政権は世界に発信することも無く、為す術なく呆然と佇むだけである。それは日本のエリート中のエリートと呼ばれる官僚の無知無能、いや知恵なき無策の姿である。しかし考えてもみよ、わが日本はアメリカに次ぐ世界第二位の経済規模をもち、世界的に信頼をかち得ている大国である。それが証拠に日本円はドルのみならずユーロの信用すら超える。

その国家がどうしたのだ。いったいこの国は何をしているのか。中国をはじめ、アジアの国々から期待されている日本はどうしたのだ。

言うも空しいことである。この半世紀、いな、戦乱の20世紀を超えて、ペーパー試験で選抜された日本の官僚は日本人のみならずアジア諸国の人々の期待をも裏切り、踏みにじってきたのだ。

今年の洞爺湖サミットをみよ、北京オリンピック外交をみよ、北朝鮮問題の六カ国会議をみよ、世界第二位の大国の名分は微塵も無い。それは紛れも無い、世界第二位、いや、人口当たりにすれば世界第一位と同等の日本人を代表する官僚の力量の紛れも無い実力の姿である。 

決して有能な日本人を代表するに相応しい日本人の姿ではない。そう、ペーパー試験で選抜された日本人など、有体にいえば東大卒など、無能な日本人の典型であることを如実に示し、その醜態を世界に晒していることに他ならない。

景気下支えのために金利を0.2%下げた日銀経営委員会の出身校を上げよう。

白川総裁(東大経)、山口副総裁(東大経)、西村清彦(東大経)、須田美矢子(東大教養、経院)、野田忠雄(京大法)、水野温(早大政経)、中村清次(慶大経)、亀崎英敏(横国大経)。

この出身校の常軌を逸した偏向を見れば、彼らがこの国の知性を代表しているわけでなく、これほどの厚顔を恬として恥じることも無く、それは官僚や東大卒という人間の知性がいかに貧困かを如実に示しているものはないのである。

世界に冠たる優れたこの国の民草の叡智が政治に反映されもせず、不毛で下等な政治の温床であったことをしめしている。いまさら何も言う必要もない。優れた日本人がこの国の経営には全く加わっていないことを示すものである。

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4人のノーベル賞受賞から見える日本の姿

今年は4人の日本人がノーベル賞を受賞した。そして受賞者の一人は、この国の教育を『受験に汚染された教育』と言った。今年の受賞者は、全員が名古屋大学卒といってよい。一高東大卒の化石的研究者が含まれたが、その彼にしても東大の門で研究し、育まれたわけではない。

『受験に汚染された教育』は絶対に正しい認識であり、そしてその語に続く言葉は、『受験教育により歪められた日本』ということになるであろう。有体にいえば、立身出世のための受験に成功することを目的に我利勉に勤しむだけの青春を費やした者のみが東大へ進んだ。そして受験勉強などせず、思春期の多感な青春を送った有能な多くの日本人は東大以外の大学に進んだ。

つい40年前までは、東大以外は今回のノーベル賞学者を排出した名古屋大学のような旧帝大系の大学へ進むことはそれほど難しいことではなかった。そう、東大を除けば京都も含めて刻苦勉励の受験勉強などせずにこれらの大学に進むことが可能だった。それがどうだろう今は。ノーベル賞受賞者の目にも「受験勉強に汚染された教育」が無残にも醜い日本人の育成を増大させている現実が写る。

イギリスと中国の大学が発表した大学ランキングなるものが報道されている。それによれば、トップ100に日本は4大学、すなわち、東大、京大、阪大、東北大しか入らないという。しかも東大はトップ10ではなく、20位ぐらいのものだ。昔はもっと悪かった。当時は日本の子供の学力は世界1位といわれていたにもかかわらず。現在、日本の子供の学力が世界20位ぐらいだからちょうどよいのかもしれない。

世界1位の日本の多くの子供が進学した大学が、なぜ、世界50位にも入らなかった東大以下だったか。それこそがこの国の進歩発展を阻んできた東大学閥という利権集団によって歪められてきたからに他ならない。2004年の朝日新聞の日本の科学研究費獲得ランキングなるものがある。

    科研費獲得       論文数      論文1件経費
1位東 大 185億6900万円 1位東 大 3,661件 1位阪 大 255万円
2位京 大  94億4800万円 2位京 大 2,972件  2位東北大 274万円
3位阪 大  71億6900万円 3位阪 大 2,814件 3位京 大 318万円
4位東北大  69億 500万円 4位東北大 2,525件 4位東 大  507万円

 科学研究の成果は研究費と比例関係にあるといわれる。戦後のアメリカがノーベル賞受賞者を多数輩出するようになった理由に、研究者の流入もサルことながら圧倒的な研究費にある。日本の大学が東大以下を強いられてきたのは、研究費が常に東大の半分以下を強いられてきたからだ。そして東大が研究費獲得額も論文数も1位だと喧伝された。

これはしかしペテンである。それは1件の研究費で見れば明瞭である。東大以外は半値のコストで論文を発表していることがわかる。名古屋大クラスの大学のほうがはるかに独創性に優れていることを示している。そして研究費の不足を創意工夫で乗り越えている姿なのだ。

 日本の国家としての後進性は昔の東京帝大、今の東大を頂点とする醜い無能の学閥官僚によってもたらされたことを如実に示している。それに痛烈な批判を浴びせる今回のノーベル賞受賞であった。

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東大至上の価値観が崩れたとき、新たな日本の建設が始まる

振り返れば、途方もない愚行の連続であったといわなければならない。東大、なかんずく東大法学部を頂点とするこの国の点数至上の教育こそが、亡国の教育、否、虚構の国家百年の大計であったことがである。

アメリカ金融資本主義の破綻を前に、日本の秀才と呼ばれた官僚集団はなす術もなく呆然と立ちすくむ。同輩の東大教授も経済評論家も財界人も、いつもの見識の披瀝すら行わない。もっともらしい予測も、経済の立て直し策の指針も描けない。

何が国家最高の知識集団であったか、何が国家最高の知性であり叡智であったのか。破綻の淵にあえぐ自民党政府の近辺から、彼らは音もなく遠ざかろうとしている。誰もこの国の危急存亡のときに身を投げ出して救国の行動を取ろうとする者はいない。すべてがまごうことなき虚構の知性や叡智の集団であったことを無残にさらしている。先の亡国の大戦と同じように。

しかし我らが日本の同胞は、東大卒がごとき浅薄な知性とは無縁な人間で満ち溢れていることに違いはない。心配は無用なのだ。そして自民党はさらに1年、政権の座にしがみつくことになるであろうが、この1年こそは、来たるべき政権交代と官僚排除の新しい政治の幕明けの準備期間となるであろう。救国のための政権スタッフ糾合のときである。

点数序列の秩序を基に、この国は官界、財界、そしてマスメディアの世界がいわば学閥という集団に壟断されてきた。しかもこの壟断は偽りであれ学問の世界とつながることによって巧妙に日本人を欺いてきたものである。昔は、官立の帝大に対する抵抗勢力であった私立の学校ですら、実業の世界で排他的な利権集団、学閥集団を形成すると、自ら帝大と同様の腐敗の教育に自らを貶め、自らの教育の理念を汚した。それは今日までも続いている。

この国の政治家が政治屋と呼ばれて久しいが、それは政治が二世、三世という世襲の血族に相続されていることでもあきらかであろう。そして、高級官僚を父親に持った息子世代の出身校は、圧倒的に早稲田、慶応であろう。今も昔も、この大学は創立者の教育理念に反して、帝大の補完勢力として財界、官界にはびこってきた学校である。いまや、下劣なマスコミと言論の世界は、東大とこの早慶に支配されているといってもよい。

これらの体制を突き崩すために、この1年は日本再生のための時にしなければならない。無論、これらの大学出身者であろうとも、この腐敗の教育システム否定の立場に立つものは改革者である。

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最後の自民党内閣―麻生内閣から官僚が消えた

戦前からの官僚主導の政治を復活させるために吉田茂らによって創設された自民党とその官僚主導政治は、奇しくも吉田の孫の麻生太郎によって終焉の時を迎えようとしている。麻生内閣で唯一の官僚出身者の中山成彬が辞任することによって、官僚出身者がゼロの内閣になった。

東大卒閣僚が5名の内閣もおそらく初めてのことではないかと思うが、中山以外の東大卒閣僚はすべて国家公務員試験-高等文官試験の及第者ではなかった。唯一、中山だけが大蔵省のエリートであったが、あとの東大卒閣僚は舛添要一の他はみな東大法学部の劣等生といってよい。

東大と東大卒官僚の世界が試験の点数に支配された世界であることはその当事者以外にはわかりにくいものである。そして高得点者が秀才の名をほしいままにし、おのれの関わる政治状況の中を無難に乗り越えた者が出世する世界でもあるということも。それ故に、東大の4年間は上級職を高得点で及第するために一心不乱に暗記勉強に励み、官僚になれば無為無策で過ごすことが高位高官への道であったその官僚政治が今、音を立てて崩れようとしている。それは官僚に依存しなければ政権運営が不可能な麻生自身が、官僚政治からの脱却を口にしなければならないほどに、政治的対立軸が、官僚主導政治か、それとも官僚排除の政治かに絞られてきとことを示すものだからである。

して最早、自民党の内閣を支えるに足る官僚出身閣僚の存在そのものが、虚構のものであったことを示している。誰でも務まる理想も理念もない政治運営であったからだ。

民主党が掲げる地方分権の推進と官僚を排除した議院内閣が実効支配する行政運営が実現するならば、この日本の国は新たな進化を遂げることが可能であり、目前に現れた未曾有の世界金融恐慌の大嵐をも乗り越えることができるのであろう。

その歴史的変革の足音が高らかに聞こえてくるようである。政治革新に関わる者は、この自民党官僚支配政治を完膚なきまでに打ち砕くこと、決して官僚に政治を依存しない心意気を忘れないことが肝要である。

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自民党-官僚政治を終焉させる第一歩

福田政権も安部と同様に中途でその政治権力を放棄することになった。福田も阿部も勉強秀才の官僚出身ではなかったけれども、親父や祖父がこの国の後進性を示す東大官僚出身政治家の二世、三世の世襲議員であった。

170pxshinzo_abe_sept_82c_2007_cro_3 従って、心情的に反官僚の国民側の政治スタンスを取ろうとしても、その政治は官僚にどっぷりと依存しなければならない政治であった。故に、無責任に中途で政権を放り出す。

「俺じゃなくても政治はできる」と。

この国の将来をかけた、否、沈みかけつつあるこの国を救う政治状況にするための、国民の選択の時がせまっている。この選択は、国政に関わる者が官僚に依存する政治を志向する者か、官僚を排除して、地方分権、国民の英知を集めてこの国家危難の時代を乗り切る志の者かに絞られるべきである。

220pxyasuo_fukuda__world_economic_3 資本主義は寡占化が進み、国体や政治の官僚化が始まると退廃し、衰退することが原理である。それ故この国は、始めから官僚により腐敗と退廃へ向かう政治形態の宿命をもち、経済構造を持っていたと言うべきである。この宿命的官僚主導の構造をこそ、破壊しなければならない。そして、新たな政治構造を作ることこそが、我々が志すべき唯一の選択である。

来る衆院選挙では、反官僚勢力が大躍進することをもってして、よしとすべきである。それ故に、選ばれるべき議員候補者の官僚政治に対する思いが、最大の選択基準になるべきである。

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官僚政治解体のプロセス

官僚政治を解体する最初のプロセスは、戦前から続くエリート官僚が作った偽りの自由主義の自民党を来るべき衆議院選挙で敗北させ、政権の座から追放することである。これが第一段階である。

そして民主党単独であれ、連立であれ、或いは自民党脱党の反官僚有志との連立でも、次の政権の政権構想、政治の対立軸を「官僚主導政治の完全否定」を基本理念とすることである。 この段階で決して忘れてはならないことは、左翼や右翼という政治思想を絶対に対立軸に持ち込まないことである。

この政治闘争は資本主義対社会主義でも共産主義でもない。真の自由で公平な民主主義政治を官僚自民党から奪回することである。そして反自民党や反官僚は、決して「反自由主義」でも「反資本主義」でも無いことである。これを忘れると再び日本の政治は自民党官僚政治に復帰することを銘記していてほしい。

かっての細川、村山政権の再現をみるということをである。 社会主義や共産主義は人間の自由を必然的に制限する政治体制であることにおいて、人間の希望も夢の追及も望めない無気力の社会を示す。それは歴史的に証明された事実であり、今の自民党政治よりも更に悪質な国へと日本を導く可能性すら持つものなのである。

だから国民の支持は絶対に獲得できないものに相違ない。それ故、反資本主義や反グローバリゼーションなどとの思想は時代錯誤も甚だしいこと、その虚妄の思想を現実の政治闘争に決して持ち込んではならないことを私達は決して忘れてはならないのである。

官僚政治打倒の新政権の次の仕事、否、最初の仕事には、すでに四半世紀も叫ばれてきた行政改革による財政の健全化である。行政改革というのは、簡単に言えば肥大化して非効率的、否、反国民的になった国家権力、国家機構をそぎ落とすことに他ならない。

日本の道路は市道、県道、国道とあるが、それを管理する公務員は全て異なる。道路ばかりでなくこの国の政治は官僚公務員を扶養するがための非効率な構造が二重、三重に入り組んだものだ。この全ての地方行政と重複する行政機能を一つにする。分かりやすく言えば県単位に統一してしまう。

そして重複していた公務員の数を削減するか、雇用を確保するならば一律給与3割削減を実施する。これは社会主義政治団体との激しい闘争を呼び起こすであろう。しかしここで私達は決して妥協してはならないのである。それは自民党打倒の政治闘争が左翼の政治闘争ではないからである。

対象となる公務員は独立行政法人の職員を含めて40万人である。その人件費は3兆円である。基本的にこの40万人は冗員である。従って大阪府のように財政基盤が脆弱な地方自治体は職員数の削減か給与削減を厳しく求めなければならない。この国家公務員の直接統治機能と特別会計の一般会計との統一化、特別会計収入の一般予算化という言葉の方が分かりやすいだろうが、その完成によって官僚政治を完全に追放することができる。

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高貴なる者の義務

国家の指導者たるものが世襲貴族ではなく、近代教育の中で育まれ、選抜された者に与えられるとしたら、恐らく受験競争の心得違いの者は全て辞退するに違いない。国家指導者たる者が代議士であれ、官僚であれ、民主主義の世にあってそれは人間個人の幸福追求の職業ではありえないからであり、公に奉仕し、国家発展に殉じる覚悟なくして勤まるものではないからである。

政治は自由世界に住む人間の欲望を統治し、管理するものである。そして絶対多数の絶対幸福を保証し、人類が進歩発展を継続するその時間の流れを中断してはならない膨大な義務を負う。

それ故、選ばれし指導者というものは、苛烈な人生を余儀なくされるのである。時には明日の命の保証さえないかもしれない。それが国家運営を嘱望された者の義務だ。 これを高貴なる者の義務という。近い過去の歴史でいうならば、国家破綻を招来し、人類の平和を脅かした大罪の責任は、全ての国家統治に関わった政治家官僚が負わなければならかった。

もし天皇が、国家最高の責任者であり、この国と国民の絶対幸福に責任を持つ高貴なる者の存在であるならば、死罪を宣告された政治家官僚に代わり、自らの生命を差し出す必要があったのかもしれない。

嘗ての中国明王朝最後の皇帝である崇禎帝が謀反軍が王宮に乱入してくるのを見て、「百姓を殺傷する勿れ」の遺詔と共に自縊したこと、或いは秀吉軍に攻められた高松城主清水宗治が「領民安堵」の身代わりになって自刃したことなどのようにである。

いや、明治維新の国家建設の時代においてですら、国家指導者は暗殺や理不尽な運命を甘受した。それが時代を変革する政治家たるものの義務と自覚していたからに相違ない。 わが国における明治以来の官僚政治は、この高貴なる者の義務感を喪失した者たちの政治であった。そしてそれはこの国の教育の失敗の連続であったことを意味する上において、東京帝国大学と東京大学の責任は歴史的に極めて重大であったといわねばならないのである。

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«偏差値難関という虚妄の教育観を打ち捨てよ(2)