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次官会議の廃止-東大解体闘争の歴史的意味

民主党政権になって、明治19(1986)から始められたという内閣次官会議が廃止された。極めて感慨深い歴史的な変革である。

この次官会議は、明治維新政府の政治の具体化、すなわち行政実務の最高峰に君臨していたものである。最初は近代の高等教育とは無縁な薩長閥を軸とする士族を中心に構成されていた。明治の国家近代化は様々な出自の人間が周囲の評価を勝ち得て行政のトップに選抜され、同じ明治維新の志士上がりの政治家の指導の下で推進された。

しかしやがてこれらの次官会議のメンバーが、入学試験の成績のみで選抜された官僚出身者にとって代わられた時から、この国は亡国の敗戦への道を辿り始めたのである。そしてこの次官会議こそは、「東大にあらずんば人にあらず」の藩閥政治に代わってこの国の政治を東大学閥で独占する科挙官僚政治の始まりを意味していた。

太平洋戦争が文官官僚と同様に、入試難関であった陸士、海兵出身者達の暴走と断ずる歴史認識は誤りである。日本と日本国民を破滅の淵に導いた先の亡国の敗戦は、軍事官僚だけの責任ではなかった。いずれも中国を模倣した皇帝に仕える官僚を科挙式の試験で選抜するという、日本の近代高等教育から輩出された文官官僚と軍事官僚が起こした傲慢で無謀な国家運営であり、愚劣な戦争遂行であったことは紛れもない歴史的事実である。

しかし日本の政治史上でも文字通り陋劣な中央集権政治の仕組みが起こしたこの国の悲劇の真の原因究明はなされず、軍事官僚と同様に共同正犯として国家と国民に対して負うべき責任は、広田弘毅一人を断罪することで一切を免れ、敗戦後も何食わぬ顔で存続し続けてきた。

その理由は。戦後、世界が自由主義と共産主義が対峙する冷戦という政治構造に大きく変化したことによって日本の旧秩序が保守されたということが挙げられるが、天皇の官僚という姿のままで自由と民主主義を標榜した新生国家の中で生き長らえてきた大きな理由は、次のように考えるべきである。

すなわち、日本の政治の実質的な遂行者であった官僚とその組織が生きながらえるための「命乞い」の代償として、新生日本は米国に隷属する密約をアメリカGHQと取り交わしたこと。そして民主主義の選挙が導入されても、天皇から負託されて行われた戦前の亡国の官僚政治を国民が再び支持したのは、ペーパー試験の成績が優れる者こそが日本の知性を代表するにふさわしいとする、日本の教育制度が育んできた虚構の人物評価観であったことだ。

そのことを象徴するのが、この内閣次官会議であり、日本の政治が政治家主導の政治ではなく、明治時代から続く官僚主導の政治であったこと示す紛れもない証拠である。

民主党政権が閣議と同じ機能を果たしてきた事務次官会議を廃止したことは、この国の政治が本当に近代化する新たな出発を意味している。そしてこのことは日本の教育観を大きく変えなければならないことも同時に意味している。

40年前、私達が経験した東大解体闘争の真の歴史的意義や闘争の目的こそが、明治憲法に定義された天皇を権威の頂点とする官僚優越の中央集権の全体主義国家運営への反対であり、間違った国民の教育観に支えられた官僚輩出機関としての東大とその虚構の権威を根本的に問うということであった。

政権交代が成り、官僚主導政治の象徴である次官会議が廃止された今、東大を卒業した者もそうでない者も、この廃止の意義とともに東大解体闘争の意味をもう一度、問い直して欲しいと思う。

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